どうも!
パティシエとパン屋のハーフシンガポール駐在員トムです。
シンガポールに来てそろそろ2年が経とうとしています。最近やっとシンガポールの歴史を学ぶために本を読んだりしています。やはりローカルの地にビジネスを根付かせるためには歴史の理解は必要不可欠だと思います。そして先日初めてシンガポールの歴史を学べる「National Museium of Singapore(シンガポール国立博物館)」の日本語ガイドを聞きに行ってきました。
今日はその時の内容を掻い摘んで書こうと思います。日本語ガイドは朝10:30~と時間が決まっています。日本から来た知人が参加できるとは限らないです。その時に少しでも解説できるようにメモとして残しておきます。
ざっくり読むための見出し
シンガポールの歴史を学ぶ!博物館の日本語ガイドに参加してきた
シンガポール国立博物館
今回行ったのは「National Musium of Singapore」通称シンガポール国立博物館(以降:シンガポール国立博物館)です。シンガポールにある博物館や美術館には日本人の駐在の方々がボランティアでやってくださるガイドがあるとお客様から聞いていました。
どうせ行くならガイドを聞いて理解を深めようと、朝10:30集合で行われるシンガポール国立博物館の日本語ガイドに参加してきました。
余談ですが、シンガポールには、シンガポール国立博物館・シンガポール美術館・アジア文明博物館・プラナカン博物館の4つがあり、どこにも日本人の方がガイドをしてくださっているようです。シンガポールミュージアム日本語ガイドグループの公式ブログに詳しいことが書かれています。
さて話を戻します。10:30開始の為、10:25頃に入り口入ってすぐ左のガイド待ち合わせスペースでシールを受け取り待ち、今回は約10人でスタートです。
ちなみにこのシンガポール国立博物館の入り口の天井はドーム型に50枚のステンドグラスがはめ込まれた建築的に見ても非常に高度な技術が施されているようです。ガイドの方が、イギリスのビクトリア女王から…と説明してくださいました。
そしてこのシンガポール国立博物館のコンセプトは「開かれた博物館」ということで、中にパスタのおいしいカフェ「Food For Thought」があったりと一般の方にも内部は解放されています。
そして建物自体は「地層」をイメージしたデザインでかなりおしゃれな作りの建物です。また。ここは元々は「コートカニングの丘」という歴史的にも重要な場所を切り崩して作られたそうで、カフェの外に丘の一部を見ることができます。
そして館内は歴史的に分けた4つのセクションからなり、それぞれの年代の重要なものや、写真などを見ながらシンガポールの歴史を学ぶことができる博物館です。観光客にはもちろんですが、シンガポールで働く方には是非一度訪れて頂きたい場所です。
ではここからは実際の館内の写真と、ガイドさんから聞いた#トムメモメモを元にシンガポールの歴史を残していこうと思います。ガイドに参加できない方はこれを片手に疑似日本語ガイドが体感できるはずです。(笑)
シンガポールの歴史
ここからは日本語ガイドさんの言葉を元に書いていきます。僕の聞き間違いやメモミスがあったらすみません。(笑)心の声()カッコ書きと共にお届けします。
初期
元々シンガポールは「テマセク」や「シンガプーラ」と呼ばれていました。そんなシンガポールの歴史は約700年前まで遡ることができます。(日本は紀元前まで遡れるってスゴイ!!)
シンガポールの歴史上もっとも古いものは、10〜14世紀ごろのものだと思われるシンガポールストーンと呼ばれる石板です。イギリスが国土開発の為に爆破した破片が3つ発見されましたが、いろんな経緯があり、今ではここに展示されるもののみとなってしまいました。(10~14世紀って400年分も範囲があるぞ!)
ここに刻まれた文字は今でも解読ができていないらしい。
シンガポールの14世紀はオランアウト(海の人という意味)と呼ばれる人が生活していました。当時の暮らしは、仕掛けを使って魚をとって生活が中心だったようです。しかし見つかったものから当時から金属加工技術があったことがわかります。(金属はどっから来たんだろー)
切り崩したコートカニングの丘から中国の薄くて高級な陶磁器がみつかったことからここには高貴な人が住んでいたことがわかっています。また、純金性のお宝も見つかった為、インドネシアと貿易があったことも明かされています。
その当時のシンガポールはさいちょう?のツノを加工して、アクセサリーを作り近隣諸国と貿易もしていたようです。しかし、王様が来て100年。近隣諸国に攻め込まれ、シンガポールはいったん歴史から姿を消します。(一体何をしたんだシンガポール!)
植民地時代
そしてシンガポールが次に歴史に登場するのは植民地時代です。シンガポールにやってきた人物
は、トーマス・スタンフォード・ラッフルズです。ラッフルズ・○○のシンガポールの地名や建物名になっているあの人ですね!(本で読んだぞ!シンガポールの父だ。)
そのラッフルズさんが見つけた当時の絵が残されていました。そこにはシンガポール国立博物館が立つコートカンニングの丘も描かれています。
そしてラッフルズはシンガポールを貿易のための港とすることを決めます。理由は、大型船が止まれる深い湾がある事。豊富な水の供給ができる事。オランダの息がかかってない事。この3つがラッフルズがシンガポールを選んだ理由でした。(ラッフルズさんってスゴイな!会ってみたい!)
その1919年、イギリスの測量船が上陸しラッフルズさんから大佐への手紙が残されています。そこにはラッフルズさんがシンガポールを「我が子」と記しています。またシンガポールの素晴らしさと領土を乗っ取ることではなく、関税のかからない自由貿易港として開拓することを決めました。
この開拓前のシンガポールには1000人の人が生活し、内地上で暮らすのは150人程度でした。そこからジャングル開拓が人の手によってスタートします。
しかし、ジャングル開拓は決して簡単ではなくまず初めはネズミ。そしてムカデとたくさんの課題が出現します。しかしそのたびに政府はそれらに報奨金をかけ乗り越えてきました。また、その中の1つがトラで毎日1人はトラの被害にあっていたようです。最後のトラが目撃されたのは1930年代らしいです。(おい!結構最近だなー)
そして開拓が進むと人が集まってきました。最初は 貿易商人、そして労働者。特にアラブ人のメッカに巡礼に向かう船が多くイスラム教徒がお祈りをする姿が写真に残っています。
他にも当時描かれた絵が残っています。こちら一見美しい平和な絵の様にも見えますが、見方を変えれば馬車に乗っているのは西洋人、地べたにいるのはアジアの人々。つまり支配関係が見て取れる絵にもなっています。
この絵の近くに展示されている資料には当時のラッフルズさんのタウンプランが記されており、そのタウンプランには民族ごとに住むところを分けられています。それが今でも残る「リトルインディア」や「チャイナタウン」です。(そういうことか!どや顔でみんなにうんちくたれよう)
このようなタウンプランを作ったのは、民族同士の衝突を避ける為と政府へ対抗勢力を抑える為と言われています。
ただこの当時の中国人労働者は特にひどい暮らしをしており、その最たるものが日本の人力車と同じような形の「苦力」と書いて「キューリー」と呼ばれる人々でした。(写真の奥に人力車引いてそうな人が…(笑))
これらはかなり辛い仕事にもかかわらず、わずかな賃金で働いていました。そんな彼らが食べていたのがシンガポールの伝統料理にもなっている肉骨茶(バクテー)です。今でこそ肉を楽しみますが、当時は労働者の人が元気をつける為に骨を煮込んでスープを飲むものでした。(スープだけかよ!!)
その過酷な労働を紛らわす為にこういった人々はアヘンに手を出します。しかし、アヘンは本来裕福な人の嗜みです。もちろん購入はできません。だから手を出すのは、その人らが吸い終わった、吸い殻を拾い吸っていたようです。
当時のシンガポールではアヘンは合法で550件の公認ショップがあったようです。政府は健康を害するものとわかっていながらも禁止にできなかった理由は、アヘンの販売ライセンス料が重要な財政の40〜60%を閉めていたからです。(当時の政府バカヤローだな)
そんな政府に違和感を持ち立ち向かった人物が今のMRTの駅名にもなっているリムブンケンです。かれはヴィクトリア女王奨学金でイギリスに初めて留学をした人物です。植民地政府に貧困層の生活を訴えた人物であり、政府との架け橋でした。(リムブンケンってどこにあるんだ?)
他にも教育を通して訴えた人物がこちらもMRTの駅名になっているタンカーキーと呼ばれる後にゴム王として財を成した人物です。彼は学校建設を行い、シンガポールの教育を充実させました。(ハウパービラしか知らないぞ)
この当時のヴィクトリア女王奨学金制度は、イギリスの植民地政府がエリートを育成して、植民地政府に有益な人財にするつもりで行われていました。しかし留学して戻って来ると自分たちのアイデンティティに疑問を持ち皮肉にも反植民地主義が目覚めたのです。(やっぱり狭い世界しか知らないって怖い)
日本支配下時代(名前聞き忘れた)
ここからが日本人はしっかりと知っておくべきシンガポールの歴史です。日本の小・中学校の歴史でシンガポール侵略の事についてを学んだ記憶はありませんでした。しかし、シンガポールにとってはとても大きな歴史です。
日中戦争中、日本は富国強兵がうたわれ、豊富な資源を求め東南アジアを次々と侵略していきました。それは丁度1941年。歴史で僕らが学ぶ真珠湾攻撃(パールハーバー事件)と同時期の出来事です。(もっとしっかり学べばよかった)
シンガポールから北へ1800kmのマレー半島の一部に上陸した日本軍。そこから次々と侵略していきなんとたった70日後の2月15日。日本は軍はシンガポールまで攻め入りシンガポールを陥落させます。まさに電光石火の出来事です。
13万人ほどのシンガポール側に対し、日本兵はたったの6~8万人の兵力でした。ジャングルの中を小回りの利く自転車で南下。 情報が伝達し、橋が破壊される前に攻め落としたのです。そして、当時の日本軍の指揮官山下さんは、「無条件降伏」を要求し、それを植民地政府に飲ませました。(チャリンコはやべーな)
そしてここから日本軍は「日本化政策」を行います。反日か反日でないかを確認し、反日の者は容赦なく海岸にて虐殺を行いました。これを「シンガポール大検証」と呼ばれています。当時の犠牲者の数を日本では5,000人と言われていましたが、実際の数字は30,000~40,000人とも言われています。
しかし近年土地開発の為に海岸を埋め立てる際に出てきた遺留品を巡って補償問題にまで発展しました。そして60億円の補償金を日本政府は支払いました。その時に建てられたのが、シティーホールにある「決済の塔」です。(だから今のシンガポールがあるのか。ごめんさない)
そんな日本の支配下時代は3年半という長い時間続きます。日本の第二次世界大戦の敗戦を告げるビラは飛行機で上空から撒かれ、こうして日本の支配時代が終わりました。
そのあとイギリスが支配者として戻ってきますが、ヨーロッパの強くて偉大なイメージは小国の日本に飲まれていった姿を見て、その気持ちが揺らぎ独立へと進んでいきます。
独立
日本の支配下を終えたシンガポールは食料・貧困問題や洪水・病気などの社会問題を抱えます。そこで立ち上がったのがマラヤ共産党 です。主義者は一般人の植民地政府への不満を煽ります。
それに対して暴力に訴えてもダメと判断したのが後に初代首相となる「リークワンユー」です。リークワンユーはマレーシアと一緒になる形で独立しようという選挙公約で見事当選します。この当時マレーシアと共に独立すると決めたのは、資源がないシンガポールにとっては、それが得策であると考えたためでした。
しかし、2年半後民族や経済的事情を理由にマレーシアから追い出されます。リークワンユーが36歳 の時の出来事でした。マレーシアからの独立の会見は途中でリークワンユーが号泣し20分中断します。その為これは「涙の会見」と呼ばれ、シンガポール国民はみんなが知っている会見です。(知らなかった…)
この涙は今後の行き先不安とマレーシアと独立するといった選挙公約を守れなかったことから支持者を裏切ったという思い出の涙でした。ただそのあとリーシェンロンは力強く次の様に語ります。
「何人でもないシンガポール人として国を 築いていく」
そこからシンガポールとしての国づくりが始まります。国家紙幣やパスポートを作ります。シンガポール独立翌月には、ASEANに加入し、国際的にも認められるように努めました。
そしてシンガポールが経済発展の為に取った政策は、「外国資本を呼び込む」事です。そして最初は蚊取り線香など単純なものの製造。そして、職業訓練校を作り精密機械など高度産業へと進みます。それらを経て、見事国としての発展に成功します。
そんな政府が持つビジョンは、「全ての国民が家を持つ国家」です。1960年住宅開発庁(HDB)の調べによると15年で約7割。最近では85%が家に住んでいて、90%が持ち家であり、持ち家率では世界一の国となりました。
またリークワンユーは「緑の政策」を行い、シンガポールの国土の半分を緑にしました。これは国際的な投資を引きつける意味もあると言われています。また、木そのものにもこだわり、ほとんどが枝を大きく張って日陰を作るが、根を張らないレインツリーを採用しました。
シンガポールに元々多かったのは天ブスの木で、これも大きく枝を張るのでいいのですが、根も張るので採用されませんでした。また川もクリーンにしました。ここでは以前汚かった頃の匂いをかぐことができます。(嗅いだけど臭すぎ!横で江戸川の方が臭い。と言っている人がいました。江戸川おそるべし!)
そして最後の広間には、シンガポールの現在のさまざまな数字が壁に描かれています。
以上シンガポールの歴史のお時間でした。長い文章お付き合いいただきありがとうございます。そして、案内してくださった日本語ガイドの方ありがとうございました!!
トムメモメモ
シンガポールにビジネスを立ち上げに来て早2年。まだまだ安定しない環境が続いています。でもそりゃそうです。新人店長の僕、そして新人社長、そこにローカルの新人たち。
しかも海外でのビジネス立上げ経験者はゼロの最強の環境です。こんな環境だからこそ問題が起こることでいちいち心なんて折れてらんない!少しずつ少しずつでも環境を整えて、いい会社を作っていくしかない。日本でも新規開拓は難しいのだから、海外は難しくて当然。それに挑むのが最高の挑戦であり、幸せです。
でも文化が違うとこ、宗教が違うとか、いくら言っても結局よくわからない。だったらローカルの中にどっぷりとつかって、歴史も、宗教も、文化も、言語もすべて受け止めて土壌を築いていきたい。
かっこよくなくて、泥臭くでもいい。今目の前の事に全力で生きてみようと思います。シンガポールは確かにレギュレーションが厳しく、ビジネスが難しい国。でも、それはこの資源のない小さな国を守る手段。以前のイギリスや日本からやられたように侵略されない為の生き残る手段なのだと思う。
だからこそ、そこにしっかりと染まって、シンガポール政府やシンガポールの人々から「FUBIC」がシンガポールに出てきてくれてよかったといってもらえるような会社を作りたい!!まだまだ道は途中…踏ん張り時!!!
今日のお昼はアランとランチ!食卓を一緒に囲むことが相手を知る一番の方法。それを信じて今後も続けていこう。
にしてもローカルフード安いなw#トムメモメモ pic.twitter.com/WAV4UJ3SUd— Tom.Y@SG 駐在員(フュービック) (@tomsoccerbaka) 2018年3月16日
まとめ
今回はシンガポールの観光地「シンガポール国立博物館」に行ってきて学んだ歴史と、それを聞いて感じた会社への思いを綴りました。やっぱり歴史を知っていると、知らないでは視点が変わります。まだまだ知っていかなければいけないです。
シンガポールには大した観光地はないと思っていましたが、住み始めて2年目にしてやっと魅力に気が付き始めました。もっともっとローカルにはまりつつ、自分の、会社のカラーを確立していきます。これからもいろんな場所や、おいしいレストランなども配信していきます。
またInstagramでは、シンガポールで見つけた魅力ある建物やおいしいごはんをリアルタイムで配信しています。こちらもよろしければフォローお願いします。
シンガポール国立博物館周辺のおすすめカフェ
K-POPアイドルがやっているカフェ「+82(plus eight two)」こちらはWi-Fi・コンセント完備の為少し何か作業をするには非常におすすめです。
おしゃれさで言えば、パンケーキとコーヒーの有名な「Curious Palette」は歩いて10分弱のところにあるおしゃれなカフェで、ここは非常にコーヒーもおいしいのでコーヒー好きはこちらへ。
後は先ほども上げましたが、シンガポール国立博物館の館内にある「Food For Thought」のカルボナーラも非常においしいです。
是非日本語ガイドを聞き終わった後に楽しいランチもお楽しみください。こんなデートもありなんじゃないでしょうか!(笑)
最後に!!!
今僕のブログがシンガポールのブログランキングでTop10まで入り込んできました。パチパチ
これもすべて読みに来てくださるあなたのおかげです。これからも暖かく応援してくださったら幸いです。よろしくお願い致します。よろしければ最後のボタンをぽちっとお願いします。(笑)
Tom Yoshida
トム様
突然のご連絡失礼します。
旅行会社Voyagin(楽天グループ会社)の三田と申します。
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Voyagin三田
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