どうも!トムです。
またまた養老先生の動画を聞きながらのランニングをしておりました。
今日もそんな中で感じたことを、たらたらと綴りたいと思います。
自分という壁
今日聞いたのはこんなタイトルの対談だったように思います。
「自分」とはいったい何なのか。
その一昔前は最小単位は、「家族」であった。そして、仕事とというのは家族単位で割り振られ、その中で個人という単位での仕事に分類されていた。しかし、最近は個人が社会における最小単位として認識されるようになっている。
こんな話が導入部分だった気がします。メモも取らずに走っているので、とにかく聞き、記憶に残ったところだけを現代生活に紐づけて、ここでは話をします。
ここで重要なのは、「自分」とはいったい何なのか。自分とは変わらないのか?探し見つけられるものなのか?はたまた、自分とは周りから見てどういう存在なのか。「自分探し」そんな言葉まで存在する。では、個性ってなんだ。オリジナルって何なんだ。人と違うことは良い事なのか。それともダメな事なのか。
いったい「自分」とは何なのだろう。
養老さんは、個性とは「あって仕方がない物」と言っていた気がする。どういうことかと言うと。やはり、人はいくら最小単位として「自分」という個体になったとて、その1つ1つは違う物である。持って生まれた、体型や性別、血液型その他細胞レベルで決まっているものは、同じ「人間」であっても違う。
それはまさにそうなのだからどうしようもないのだから、「あって仕方がない物」と表現した。もちろん整形ををしたり、なんだかんだでいじることが可能と言えば可能であるが基本は、それが個性である。基本的には変わりえないものだ。
他の性格や、考え方、信仰、そういった表面におけるいわば人間性や人間味のようなものと言われるものはどうだろう。人は変わらない。と言えば、以上なのかもしれないが、幸か不幸か「人は変わる」。それは個性ではなく、この部分が変わるのだ。
ただ他人は、自分の周囲が変わられると困るのである。例えば、先月社長が言っていたことが急に今日は言っていることが違うなんてことが起こったらどうだろう。間違いなく困る。しかし、残念ながら変わるのだ。周囲の環境や人、様々なものの影響を受け人は変わる。
これは人間の持って生まれた能力である。この周りの環境の変化に強い人もいれば、弱い人もいる。それは普段どのように過ごしているか。どのような環境で育ってきたか。ということにも非常に大きく左右される。
でも、こんなことが頻繁に起こっていては、困る。それも間違いない。そこで登場したのが、情報だ。情報とは、変化しない者である。年を取るごとに衰えることがなく、内容が変わるわけでもない。いつまでたっても、その状態で保たれているのである。この僕が書いているブログも、今この瞬間は私はこうして発信をしているが、1年後も同じ考えとは限らない。しかし、今こうして残しているブログは1年後も同じ形で残されているのである。
これはなんだか非常に重要なことであるような気がした。それが何なのかうまくここに書き表せないのだが、人の個性は変わることがないが、自分という存在は絶えず変化し続ける。しかし、情報という物はその瞬間を切り取り保存するのである。
そして、自分の変化とは、何も時間的に変化するだけでなく、今この瞬間に自分がいる環境によっても変化する性質も忘れてはいけない。自分の周りの環境や、人によって自分は絶えず変わっている。それが「自分」の正体だ。常にナビの真ん中の矢印であることを忘れてはいけない。
「変わる事」が普通であり、そして適切に変われる「自分」でありたい。この変わるという能力を身に付け、伸ばすことができる環境とはいったいどんな環境なのか。そんなことを考えていきたい。
しかし、養老先生に言わせれば、そんなものは「森にある」といわれそうだ。
Tom